過去の復興事例から学ぶ、万が一の時に覚えておきたい大切なこと

日本は数々の災害に見舞われ、そのたびに様々な自治体、企業、地域が連携しながら対応をしてきました。
過去の事例を把握し、どのような対応策を取ったのかを知っているのか知らないのかでは災害にあってしまった際にできることが大きく変わってきます。

 

近年は災害が激甚化している背景もあり、各地方自治体や政府でも常に災害防止策を話し合っているかと思いますが、万が一の時に覚えておきたい過去の事例をこちらの記事を通してお伝えできればと思います。



[街]の復興

災害が起きてまず復旧しなければならないのがハード面。
まずはその街の復興事例から見ていきましょう。
見ていく復興事例は東日本大震災被災地の宮城県女川町と、阪神淡路大震災の被災地である兵庫県神戸市です。 
 


宮城県女川町(おながわちょう)の事例

2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地である宮城県女川町の復興事例です。

 

女川町は太平洋沿岸に位置し、日本有数の漁港である女川漁港、女川原子力発電所などがある町です。2020年4月時点の人口は約6,300人。

 

東日本大震災で津波が町を襲った過去があるため、三陸海岸沿岸の町では多くが高い防潮堤を設置している中、宮城県の女川町では防潮堤を作らないという選択をしました。正確に言うと防潮堤がないわけではなく、かさ上げした盛り土の中に防潮堤を隠してあります。

 

震災後、津波で被災した場所をどうやって復興するのか、今後また同じような被害が出ないようにするためにはどうしたらいいか、ということが復興まちづくりの課題となっていました。

 

そこで、三陸海岸沿岸では高い壁を築き、次また津波がきても町が飲み込まれないようにしたのです。しかし女川町では震災後、「防潮堤のないまちづくり」を進めてきました。

 

沖合に防潮堤を作り、内陸へ向かって地続きにかさ上げし、女川駅に向かってゆるやかに盛り土を高くしていきながら駅舎や商店街を再建し、住民が住む場所は絶対安全な高台へ移動したのです。

 

また、漁港や商業区などでは万が一津波が来ても逃げられるように非難するための道路も設置しました。海と共に生きてきた漁港町の女川町は津波によって甚大な被害を受けますが、それでもまた海と共に生きていく必要があって、住む場所は海から離れても「すべての家から海が見えるまちづくりをめざそう」と掲げてやってきました。

 

女川町では、住宅の高台移転を進めた上で、安全を確保するための避難行動意識の醸成、具体的な訓練での定着を図ることで、ハードとソフトの組み合わせによる多重防御を進めたまちづくりが成功しています。
 


兵庫県神戸市の事例

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被災地である兵庫県神戸市の事例です。

 

兵庫県の淡路島北部沖の明石海峡を震源として起きたマグニチュード7.3の巨大直下型地震で、特に神戸市の市街地の被害は甚大でした。
人が多く集まる近代都市での震災なので、多くの建物が倒壊、広範囲にわたる火災で多くの命が奪われました。

 

阪神・淡路大震災での復興まちづくりの大きな特徴としては、協働、住民参加型のまちづくりの基盤ができたということがあります。
まちづくり協議会が多く立ち上がり、住民参加型のまちづくりが進められました。

 

震災後、1995年3月に公表された神戸市復興ガイドライン中のまちづくりの4つの目標のうちの1つに、協働でのまちづくりの推進が盛り込まれました。
神戸市では、震災以前に「まちづくり条例」が制定されており、その中でまちづくり協議会の提案が実際のまちづくりに反映できる仕組みになっていました。

 

神戸市では、2段階都市計画決定方式をとっています。第1段階では、市が施行区域と主な都市施設のまちの骨格を決め、第2段階では身近な区画道路や街区公園などについて住民で話し合って決め、行政は住民が決めた案を尊重して都市計画や事業計画に反映するという仕組みです。

 

神戸市では、住民の方が提案するにあたって心配事や疑問点などをすぐに相談できる「現地相談所」を各地区設け、住民の不安を解消する仕組みを整えました。また、計画プランの作成は派遣されたコンサルタントが行い、住民はそこに自分たちの意見を反映するという形をとって住民の負担を軽減。

 

その後、検討の結果をまとめて市長に「まちづくり提案」として提出、市長はそれに沿って事業計画を策定し復興のまちづくり事業を実施するような形をとり、住民主導型のまちづくりを行いました。こうすることで、住民にとっても住みやすく災害に強いまちづくりができるようになります。
 



[居場所]の復興

災害復興では、被災した町の人々の居場所作りも重要。被災した住み慣れた場所を一度離れてしまうと、再び戻って来られない方も多いようです。
戻りたいと思ってもなかなか戻れないのは、仕事がなかったり帰っても大丈夫だと思える居場所がなかったりする場合もあるでしょう。戻りたいと思ったら戻れる、そのような居場所に関する取り組みを行った、東日本大震災の被災地である福島県南相馬市小高区の事例を見ていきましょう。
 


戻って来られる環境づくり

福島県は東日本大震災の被災地の中でも原発事故によっても被災しており、他の地域と比べても長期避難を強いられました。戻りたいと思ったときに戻って来られるように、帰還に向けた環境づくりを行政が支援をし、地域住民の自発的な活動も見られた事例になっています。

 

長期避難を強いられると、「いつ戻れるのか」「戻ったとしてもやっていけるのか」など、先が見えない中では中々再出発をしようとは思えなくなってしまいます。そのような中、株式会社小高ワーカーズベースは、コワーキングスペースの運営や食堂・スーパーの経営にゼロから取り組み、「誰かがアンカーとなってもう一度もとの場所に戻ること」の希望になろうとしました。

 

小高ワーカーズベースが運営する食品スーパーは、南相馬市で整備、公設民営の形態をとっていて、行政が支援する形で帰還に向けた環境づくりを行いました。
 


情報発信と帰宅手段の提供

住み慣れた場所に帰りたいと思うのは当然のことですが、移り住んだ土地に腰を据え始めると帰りたかった場所に帰ることを諦めてしまうこともあります。

 

南相馬市では、長期間避難が続く住民たちに安心と安全を感じてもらいながら、市外避難者と南相馬市とのつながりを維持し、帰るべき場所についての情報を知ってもらうため、電波でのエリア放送とインターネットにより、復興情報・生活情報・防災情報等を「南相馬チャンネル」として放送する取り組みを行っています。

 

また、南相馬市旧警戒区域である小高区と原町区の一部への一時帰宅に関し、移動手段に支障がある仮設住宅入居者等を対象として、ジャンボタクシーを運行することによって住民の一時帰宅支援を行いました。

 

住み慣れた場所の情報と、一時帰宅するための手段を提供することによって、戻りたいと思った住民に対し、心的にも物理的にも支援を行っています
 



[つながり]の復興

被災すると自分の大切な財産や家族や友人を失ったり、つながりが途絶えてしまったりと心が折れてしまいそうになることもあります。そのような中で、心のケアやコミュニティでのつながりはとても大切なこと。

 

ここでは、そういったつながり関連の復興事例を見ていきましょう。
 


宮城県石巻市の事例

東日本大震災の被災地である宮城県石巻市での被災直後の心のケアの事例です。

 

宮城県の中でも被害が甚大だった石巻圏域。避難所の数も259、死者行方不明者数は約3,700人にものぼりました。

 

仙台からのアクセスが良かったこともあり、外部支援チームが集まり、こころのケアチームが13、保健師チームは74になりました。この数にもなるとコーディネートを誰がするのかということになり、市の保健師が担うことに。毎日ミーティングを開き、情報共有や担当地区の割り当て、全戸訪問を行い、ニーズ調査をしたり独自健康調査を開いたりなど献身的に行いました。

 

市の保健師が外部支援チームをまとめることによって、幅広いケアニーズを満たすことができるチームになっています。また、チームでのケア体制は被災前よりも関係者の連携が強くなっており、地域の財産にもなっているようです。
 


福島県相馬市の事例

東日本大震災被災地である福島県相馬市の事例です。


東日本大震災で全棟数の3割以上が損壊した福島県相馬市では、被災高齢者の孤立化を防ぎ、地域コミュニティを再構築することを目的に「共助生活住宅」として、食堂のスペースや団らんの場となる共助スペースを設けた災害公営住宅を整備しました。

 

これは復興交付金事業で採択され、災害公営住宅整備事業等として行っています。災害公営住宅でありながら地域のコミュニティとしても機能しており、基本的な復興支援の中で、このように利用者や地域の住民がつながりを持てるように支援をしていくという、良い事例ではないかと思います。
 



まとめ

災害からの復興はハード面、ソフト面の両方から行っていくことが重要です。また、自治体として災害からの被害を未然に防ぐこともしていかなければなりません。

 

過去に起こった災害に対しての復興事例を知ることが防災施策立案の参考になることも多いかと思いますので、この記事が防災関係者様のお役に立てれば幸いです。



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